ログインけれど、守り袋の上で聞くと、違った。
守り袋の赤い紐が、作業台の上で細く揺れた。 赤ん坊の頃から私のそばにあったかもしれない物の前で、未央はまた、その言葉を選んだ。「それを壊したら、困るのは誰ですか」 声は低くなった。 未央が一瞬、瞬きをした。「……何?」「守り袋を壊したら、困るのは誰ですか。私ですか。あなたですか。それとも、お父様ですか」 未央の視線が隆一へ飛んだ。 ほんの一瞬だった。それでも、見間違えるには早すぎるほど、迷いのない動きだった。 「知らないわよ、そんなの」 「じゃあ、触らないで」。 「命令しないで」。 「高瀬さんの確認が終わるまでです」。 未央の肩が揺れた。 次の動きは、ほとんど反射だった。 未央の右手が、守り袋ではなく私の手首へ伸びる。三年前、階段の上で腕を掴まれた時と同じ角度だった。 私は半歩だけ身を引き、未央の手を払った。「形見なら、大げさなくらいでいい」 返す言葉が見つからなかった。 窓の外で、信号の赤い光が雨粒に割れている。私は保全袋を抱えるように、両手を重ねた。 赤い信号が消えても、保全袋から手を離せなかった。 祖母。 祖母を責める考えが浮かび、すぐに打ち消した。それでも、問いは残った。 榊邸に戻ると、玄関ホールはいつもより静かだった。 葬儀から戻った私に、使用人たちは深く頭を下げた。誰も大げさに声をかけない。黒い喪服の裾が、磨かれた床に淡く映っている。 書斎にはすでに高瀬さんがいた。机の上には白い布、薄い手袋、透明の保全袋、撮影用の小型ライトが並べられている。宮野さんも少し離れた場所に立ち、裁縫箱ではなく、細いピンセットと糸切りばさみを用意していた。「朝霧様」 高瀬さんが立ち上がる。「作業前に確認します。これから見るのは、守り袋の外側と、縫い込み部分です。できるだけ布を傷めないよう進めます。全工程を動画で残し、取り出した紙片は別の保全袋へ。……よろしいですか」 言葉だけ聞くと、祖母の形見ではなく、事件の証拠みたいだった。 祖母の形見を証拠として扱う言葉に、返事が遅れた。 私は守り袋を見たまま、どうにか頷いた。 頷いたはずなのに、喉の奥はまだ固く閉じていた。 律が横から口を挟んだ。「始めたあとでも、あなたの一言で止めます」「止めたら、祖母が隠したものも、そのままになります」「隠したのか、守ったのかは、まだ分からない」 その区切りに、少し救われた。 祖母が嘘をついていた、と決めるのは早い。 でも、何も知らなかった、と信じるには、守り袋は重すぎる。 私は椅子に座り、保全袋から守り袋を取り出した。 薄い赤の布地は、ところどころ色が抜けている。角の金糸はほつれ、内側には細かな綿のふくらみがある。祖母の手紙にあった通り、裏側の縫い目だけが少し不自然だった。 宮野さんがライトを当てると、縫い目の下に、紙の影のようなものが浮かんだ。「縫い目の下に、紙が
葬儀場の裏口を出た瞬間、線香の匂いが薄くなった。 車輪が厚い敷物を押し、かすかな軋みだけを残した。 代わりに、濡れたアスファルトの匂いがした。夕方から細い雨が降っていたらしい。屋根の端から水滴が落ち、黒い石畳に小さな輪を作っている。 私は喪服の袖口を押さえた。まだ指先に、九条康生の視線の重さが残っていた。 あなたは、ここにいるべき人ではなかった。 あの言葉は、葬儀場の音の中に紛れなかった。焼香の鈴の音よりも、親族のすすり泣きよりも、ずっとはっきり残っている。 ここ、とはどこなのか。 如月家なのか。 祖母の葬儀の場なのか。 それとも、私の人生そのものなのか。 車寄せに榊家の車が停まっていた。相良さんが後部座席の扉を開け、律は車椅子のまま私を見上げる位置にいた。「このまま、榊邸へ戻れますか」 短い問いだった。 大丈夫です、と言いそうになって、やめた。「帰るしか、ありません」「では、今は戻りましょう」 律は康生の話を続けなかった。私も口を開けないまま、膝の保全袋の端を指でなぞった。 車が動き出すと、窓の外で葬儀場の白い灯りが遠ざかった。膝の上の小さな保全袋が、雨の光を受けて曇って見える。 守り袋。 祖母が、私に残したもの。 蔵の暗がりから取り戻した、古びた布の重さが、今さら膝に沈んでくる。「今日、ここで開ける必要はありません」 律が言った。 私は返事をしなかった。 開けたくない。けれど、開けなければならない。祖母はもういない。聞き返す相手は、どこにもいない。「……開けるのが怖いです」 律は保全袋へ目を落とした。「今、開けなくてもいい」「でも」「戻ってからでも、遅くない」 私は横を見た。 律の顔は、車内の薄暗さと黒い仮面で半分だけ影になっていた。左側の頬に手をやる癖だけが、仮面の縁の上に残っている。隠している時間の長さは、そう簡単には消えないのだろう。「ずいぶん
怒りでも面白がりでもなく、計算にない反応を一つ記録したような目だった。「それは、危うい」「危うくても」 声を出す前に、唇を一度湿らせた。 言葉は止めなかった。「知らないところで話を進められるのは、もう嫌です」 隣で、律の指が肘掛けに触れた。 康生は、ゆっくりと頷いた。「……静江様が、あなたを手放したくなかった理由が分かる気がします」 手放す。 その言葉が、骨に触れた。 私は祖母を失ったばかりだ。なのにこの人は、祖母の愛情まで、誰かが持っていたもののように言う。「祖母は、私を持ち物にしたことはありません」 声の終わりが揺れた。 言い直さなかった。「一度も」 康生の視線が私の喪服の袖口へ落ちた。守り袋は、バッグの奥にある。 それを知っているのか、知らないのか。 分からないまま、康生はまた微笑んだ。「大切にされてたのですね」「……大切な人でした」「ならば、なおさらです」 康生は一歩だけ近づいた。 律の手が肘掛けを押さえる。相良さんが受付台の横からこちらへ目を向けた。高瀬さんは少し離れた場所で、弔問客名簿を閉じる。 誰も大きく動かない。 だからこそ、全員が動ける位置にいることが分かった。 康生は、私だけに聞こえるほどの声で言った。「あなたは、ここにいるべき人ではなかった」 数珠の糸が、指の間で小さく軋んだ。 ここ。 如月家の葬儀か。 榊家の隣か。 朝霧栞という名前の場所か。 訊き返す前に、康生は一礼した。「それでは、また」 黒い喪服の背中が、会場の出口へ向かう。 足音は最後まで乱れなかった。 私は数珠を握ったまま、康生の背中が消えるまで立っていた。 律が私の名を呼んだ。「……意味を、聞くべきだったでしょうか」 よ
「申し訳ありません。面差しが、あまりに似てたものですから」「誰に、ですか」 言葉が先に出た。 康生の笑みが、ほんの少しだけ深くなる。 焼香台の白い煙が、途中で形を崩した。「……古い知人に」「古い知人」と濁した声を聞くと、さっき口の形だけで呼ばれた「葵」が蘇った。呼ばれたのは私ではないのに、その名が耳の奥にまとわりつく。「その方じゃありません」 数珠の房が、指に一本絡んだ。 声は思ったより低く出た。 康生は頷いた。「もちろんです。人は、誰かの代わりにはなれません」 祖母の声が一瞬よぎった。でも、康生に言われると、同じ言葉には聞こえなかった。「では、どうして今の質問を」 康生は答えなかった。 代わりに、祭壇へ目を向ける。 静江の遺影が、白い花の中で微笑んでいた。写真の中の祖母は、私を責めていない。けれど、何かを急かしているようにも見える。「静江様は、最後まで隠し事の多い方でした」 康生の声は穏やかだった。 数珠を持つ手に、力が入った。「ご本人は、それを愛情と呼ばれたのでしょうが」「祖母を」 言葉が詰まった。 祖母の葬儀で怒鳴り返すわけにはいかなかった。 それでも黙れば、康生の言い分を認めたように見える。 彼は私が返すのを待っていた。 その待ち方に、優しさは感じなかった。 律が低く言った。「九条様。弔問のお言葉は、すでに頂戴しました」 康生は律へ向き直る。「榊様は、相変わらず人を遠ざけるのがお上手だ」「今は必要です」「彼女を九条家から遠ざけるおつもりですか」「その話は、本人に聞いてください。私に聞くことではありません」 律の返答は早かった。 律はそこで口を閉じた。 康生の表情は動かなかった。 親族控室から聞こえていた声が遠のいた。 親族控室へ続く廊下から、誰かの足音が近づいてくる。葬儀社の人
「ご丁寧にありがとうございます」 律の声は平らだった。 いつもの冷たさとは少し違う。表に出す感情を意識して消している声だ。 車椅子の車輪がカーペットに沈み、金具が一度だけ小さく鳴った。 康生の視線が、律の黒い仮面を一度なぞった。 顔を見るというより、噂との違いを確かめている目だった。「お噂とは、ずいぶん違うご様子で」「噂は便利です」 律はすぐに返した。「人が何を見たいか、よく教えてくれる」 康生は、口元だけで微笑んだ。「なるほど。さすが榊家の当主でいらっしゃる」 褒められた気はしなかった。 私は一歩だけ、律の車椅子の横へ寄った。逃げるつもりはなかったが、一人で平気なふりをする余裕もなかった。 私が律の横へ寄ったことを、康生は見逃さなかった。「こちらが、朝霧栞さんですね」 朝霧、のところで一拍、間があった。 如月ではないことを確認したような間。「朝霧栞です」「はじめまして。九条康生と申します」 差し出された名刺はなかった。葬儀の場だからかもしれない。ただ、名刺を出さなくても名だけで通じると知っている人の名乗り方だった。 私は頭を下げた。「祖母のためにご弔問いただき、ありがとうございます」 口にした「祖母」の二文字が、うまく息に乗らなかった。 康生はその言葉を聞いて、目を細めた。「よい方でした。静江様は、昔から人を見る目のある方だった」「祖母をご存じだったんですか」「ええ。直接深いお付き合いがあったわけじゃありませんが、如月家とは古い縁があります」 如月家とは。 私とは言わない。 静江と深い付き合いがあったとも言わない。 それ以上は足さなかった。 律は何も言わない。 その静けさが、かえって妙だった。普段なら、必要なところで短く線を引く。けれど今は、康生の一語ずつを聞いている。 私は受付台の方を見た。 香典袋の紋。 守り袋の刺繍。
線香の煙は、時間が経っても薄くならなかった。 窓辺のレースカーテンが、空調の風で揺れていた。 焼香台の前を人が通るたび、線香の煙が形を変えた。菊と線香の匂いが、口の中に残っていた。泣き声はもう少ない。親族たちは控室へ移り、葬儀社の人が祭壇脇の供花札を一枚ずつ確認している。 私は受付台の端に置かれた香典袋から、目を離せなかった。 九条康生。 黒い墨で書かれた名前は、他の弔問客のものよりも整っていた。整いすぎていて、紙そのものが温度を持っていないように見える。 右下に押された小さな紋。 守り袋の刺繍と似ている。 ただ、同じだと断言するには、まだ細部が違う。 蔵で見た古い布の感触が、指先に戻ってくる。手袋越しだったのに、あの布の柔らかさだけが皮膚の内側に残っていた。「栞」 低い声が、横から落ちた。 律は車椅子に座ったまま、祭壇ではなく受付の奥を見ている。視線の先で、九条康生が焼香台から離れたところだった。 康生は急がない。 会釈する相手には、相手が先に頭を下げるまで待つ。声をかけられれば微笑む。遺族に慰めを述べる時も、言葉の量は多すぎない。 その所作だけなら、礼儀正しい人に見えた。康生は焼香を終えると、親族席、受付台、私の順に視線を動かした。「戻りますか」 律が訊いた。 私は香典袋から視線を外した。「まだ、帰りません」「顔色は悪いです」「今日、もう何度か言われました」「では、私からは一回だけにします」「……一回なら」 律はそれ以上言わなかった。「何か起きてからでは遅いこともあります」「分かっています。でも、今は残ります」 声が硬くなった。 律は一度だけ頷いた。「言い方が強すぎました。すみません」「……謝るところじゃないです」 言ってから、袖の下で指を握る。 ありがとうと言う前に、肩に力が入った。気づいて、袖の中で指をほどいた。
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「







